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【論文】「『金日成主義』の考察」


(2001.7.29)


◇序文 問題の所在

 「日本の前法政大学教授・チュチェ思想国際研究所理事長であった安井郁氏はすでに数年前、金日成主席の革命思想を従来のあらゆる思想と根本的に区別される独創的な思想だとし、「いまや、ためらうことなく、これを『金日成主義』と呼ぶことができる。長い研究と思索の結論として、この断定をしたのである。」と言ったが、いま、この思想について理解をもつ人びとはみなこう呼んでいる」(1)。
 1974年以来、共和国では専ら外国人の言葉を引用する形で、金日成の革命思想を「金日成主義」と呼び習わしてきた。
 しかし1997年を境として、共和国サイドのあらゆる文献から、突如としてかかる表現が消去された。例えば、1995年の時点で「金正日将軍は……一九七四年二月一九日、全国党宣伝活動家の講習会で著作『全社会を金日成主義化するための党思想活動における当面のいくつかの課題について』を発表し、金日成主席の革命思想をその名を冠して定式化し、全社会のチュチェ思想化に関する新しい綱領を提起した」(2)と表現されていた、いわゆる「全社会の金日成主義化」宣布は、1998年になると「金正日将軍は……一九七四年二月一九日、全国党宣伝活動家の講習会で全社会のチュチェ思想化を朝鮮労働党の最高綱領として宣布した」(3)と記述されるようになり、「金日成主席の革命思想をその名を冠して定式化し」たことはおろか、金正日が発表したとされる著作自体も封印されたのである。現に、同年に刊行された「金正日選集」第3巻以降、すなわち、前述の著作が含まれた1973年以降の巻は即座に回収され、現在も関連のテキストを見ることができないままである。
 そもそも「金日成主義」とは何か。やはり現在は封印された金正日の著作によれば、主体思想と金日成主義は内容において同一のものではないとし、「金日成主義は、チュチェ思想と、それにもとづいて展開された革命理論と指導方法を幅広く包括しています。それゆえに、私は金日成主義をチュチェの思想、理論、方法の体系と定義づけた」(4)としている。この表現自体は踏襲されており、「金日成主席の革命思想をチュチェの思想、理論および方法の全一的な体系として定義づけた」(5)などといった記述は現在でも見ることができる。しかし、その体系が「金日成主義」と表現されることは、もはやない。
 本稿では「金日成主義」もしくは主体思想そのものの思想的評価を目的としない。しかし、「金日成主義」という表現が1974年に突如現れ、しかも「北朝鮮は、『全社会の金日成主義化』の提唱およびその実現に向けた動きについて、74年の提唱当初から今日に至るまで、対外的にはほとんど公表していない。『金日成主義』という表現さえ、対外的に公表される場において、朝鮮労働党自らの表現としては使用していない」(6)こと、更にそれが1997年を境として封印された事実は、十分に検討されてしかるべき性質のものであろう。
 「金日成主義」なる表現は、いかなる背景と目的のもとに登場したのか。そしてそれが公式の表現として使用されなかったのは何故なのか。また、最近になってかかる表現を封印した理由はいかなるものであったのかを検証したい。


◇1 「金日成主義」と金正日の権力継承

 そもそも「金日成主義」が登場した1974年2月は、金正日が事実上、金日成の後継者であることが確定した月に該当する。具体的には2月13日、彼が朝鮮労働党中央委員会第5期第8回総会において政治委員に選出されたのである。そのわずか6日後である2月19日、金正日は『全社会を金日成主義化するための党思想活動における当面のいくつかの課題について』を発表、「全社会の金日成主義化」を宣布したのである。極めて迅速な動きであって、周到な準備がなされていたものと窺えることからも、その関連性を検証することは重要である。
 金正日後継への流れ自体は相当以前、具体的には1963年頃から構想されていたものと推認される(1)。とりわけ、1967年5月の党中央委員会第4期第15回総会において金正日が「準備から進行にいたるすべてに深い関心を寄せ、同会議を契機に党内に主席の唯一思想体系を確立する決定的転換をもたらすうえで中心的役割を果たした」(2)ことは、「わが党の歴史に特記すべき金正日将軍の功績である」(3)とされ、彼を浮上させる要因になっている。
 かかる総会においては、朴金普A李孝淳ら甲山派が粛清されているが、金正日によれば甲山派は「なによりもまず金日成同志の革命思想に反対し、金日成同志の高い権威と威信を傷つけるため狡猾に策動した」(4)という。具体的には、「金日成同志が築きあげたわが党の輝かしい革命伝統を骨ぬきにしようと狡滑に策動し」(5)、「経済の規模が大きくなれぱ生産成長の予備が少なくなるといって、経済発展のテンポを遅らせようとし、社会主義建設におけるわが党の総路線であるチョンリマ(千里馬)運動についてまで難くせをつけ」た(6)。
 1960年代後半、共和国は野心的な7か年計画の失敗によって経済的な行き詰まりを示したが、かかる記述に基づく限り、甲山派は「修正主義」的な改革での克服を目指していた。それは「革命伝統」を必要としないものであるが、金日成は大衆動員と思想統制強化による克服を図り、むしろ「革命伝統」を強化しようとしたのである。甲山派の粛清によって金日成体制はもはや不動のものとなったが、この会議において金正日が主導的な役割を果たしたこと、しかもそれが党内における唯一思想体系確立への貢献であったことは特筆に価する。唯一思想体系とは金日成の革命思想以外のイデオロギーが許容されない体制であるが、その確立はすなわち金正日が党内でイデオロギーの解釈権を掌握することに他ならず、後の「全社会の金日成主義化」宣布と無縁ではないからである。現に共和国では、金正日のかかる行動によって「金日成主席を中心とした党の統一団結がさらに強化されることにより、党と革命の発展において転換期が生まれ……金日成主席の革命思想=チュチェ思想で全党を一色化させうる条件をきずきその偉業を本格的に推進するようになった」(7)と評価を与えていることからも、それは窺えるのである。
 金正日後継体制を巡る権力内部の葛藤は、亡命者の証言等で裏付けられる部分もあるが、少なくとも公式の場でそれが明かされたことはない。しかしながら、1970年11月の第5回党大会において、金光侠、李英鍋ら複数の幹部が党中央委員に再選されなかった事実などからも、何らかの抵抗勢力が存在し、かつ粛清されたものとの推測は可能である。換言すれば、1970年以前から金正日後継へ向けての潮流が朝鮮労働党内に存在していた、との傍証とも言えよう。また、金正日が第4期第15回総会以降、文学芸術部門、出版報道部門を中心に、唯一思想体系確立に向けての活動を精力的に繰り広げていたことは公式文献内にも伝えられている(8)が、一方で「党の統一団結を強化する闘争での金正日の功績は多大であったが、当時彼が党内部活動だけにたずさわっていたので、一般大衆にはほとんど知られていなかった」(9)とも記述されるように、それは後継体制構築に向けた隠密裏の行動であった。
 既に金日成は、第五回党大会の報告において革命の継承に触れているが(10)、1971年6月21日に至って「革命はつづき、世代はたえまなく変わります。革命の的は変わっていないが世代は変わり、すでに解放後成長した新しい世代が、国家と社会の主人として登場しています。育ちゆく新しい世代が革命をつづけてこそ、革命の代をついでいくことができ、われわれの崇高な革命偉業を完遂することができます」(11)と述べ、代を継いでの革命の重要性を力説した。これは金日成による金正日後継へのゴー・サインとも受け取られ、結果として1974年2月19日、事実上の後継者指名へつながったが、それは「金日成がすこしでも反対意思を表明すればそのようになるはずがなかった」ものであり、「結局世襲承継となったのは、一人独裁が固まり、長期化したからこそ可能となった」(12)ことは疑いようもない。そして、社会主義国家として異例な「権力の世襲」を正当化する上で、金正日自身がイデオロギー解釈権を掌握すること、更には掌握したところのイデオロギーを、金日成の絶対的権威によって裏打ちすることが必要となったのである。
 「金日成主義」なる表現が、単に指導者の名誉欲に基づくものと捉えることは早計であろう。先に引用した通り、かかる表現は外国人による発言を除いては、あくまでも金正日個人が使用したものに過ぎない。そして金正日は、偉大なる父の威光を背景に、自らの権力基盤を固めようとした。それは、「全社会の金日成主義化」宣布後の1974年4月、『勤労者』に掲載された以下の無記名論文からも読み取れるのである。
 「今日、党中央は、偉大な首領金日成同志の革命思想で全社会を一色化することについての戦闘的スローガンを打ち出すとともに、その実現のために出てくる諸般の原則的問題についてもはっきりと明らかにされた。党で教えたように、全社会を首領さまの革命思想で一色化する事業は、党の唯一思想体系を確立する闘争における新たな高い段階である。……全党員と勤労者は、全社会を首領さまの革命思想で一色化することについての党中央の方針を深く研究体得し、自己の血肉となし、その実現のために代を継いですべてを捧げて闘争しなければならない」(13)。
 「全社会の金日成主義化」宣布は、革命の継承、すなわち金正日後継体制の正当化と密接に関連していたのである。


◇2 「主体思想」と「金日成主義」の間

 主体思想が本来、マルクス・レーニン主義の延長線上にあったことは論を要しない。1955年、金日成が公式の場で初めて「主体」について言及した際にも、「朝鮮の革命こそ、わが党の思想活動の主体なのである」(1)、「活動における革命的真理―マルクス・レーニン主義の真理を体得することが重要であり、その真理をわが国の実情にあうように適用することがかんじんなのである。必ずソ連と同じようにしなければならないという原則はありえない。ある人たちはソ連式がよいとか中国式がよいとかいうけれども、もうわれわれの式をつくるときがきたのではないだろうか」(2)と、それは極めて控えめな表現であった。すなわち、朝鮮革命が思想活動の「主体」であること、活動においてマルクス・レーニン主義を創造的に適用することを提唱したに過ぎず、イデオロギーの国内的解釈権の獲得以上のものではなかったのである(3)。
 「主体思想」という用語が初めて使用された1965年になると、それは「世界には大きい国もあれば、小さい国もあり、長い闘争の歴史をもっている党もあれば、そうでない党もある。しかし、すべての党は、完全に自主的で平等であり、それにもとづいてたがいに緊密に協力する。……主体思想は、このような共産主義運動の原則に合致するものであり、そこから直接生まれでるものである」(4)と表現された。当時、中ソ対立の狭間に揺れていた共和国にとって、主体思想の表明とは自主性の標榜に他ならず、だからこそ金日成はかかる講演において「思想のうえでの主体、政治のうえでの自主、経済のうえでの自立、国防のうえでの自衛」(5)を訴えたのである。だが、主体思想は依然マルクス・レーニン主義の範囲内に留まっていた。
 主体思想が変質を遂げるのは、前述した1967年の党中央委第4期第15回総会以降の「唯一思想体系」確立に伴ってのことである。同年12月の共和国最高人民会議第4期第1回会議で採択された「十大政綱」において、マルクス・レーニン主義は「普遍的真理」に格下げされ、「共和国政府は、わが党の主体思想をすべての部門にわたってりっぱに具現すること」が規定された(6)。更に、1972年制定の社会主義憲法では「朝鮮民主主義人民共和国は、マルクス・レーニン主義を我が国の現実に対して創造的に適応した朝鮮労働党の主体思想を自己活動の指導的指針にする」(7)と明文化されるに至ったが、1948年の共和国建国時に制定された前憲法がソ連1936年憲法(いわゆるスターリン憲法)に範をとったものである(8)ことを考慮した場合、憲法改正はイデオロギー的な自立を制度的に確立させたもの、換言すればソ連お仕着せ国家からの完全な脱却を示したものと捉えられよう。
 これら一連の流れは、金正日の浮上と軌を同じくしたものである。金正日自身も少なからず関与したであろうことが想像されるが、正に共和国がイデオロギーの国内的解釈権を完全に獲得した時点において、金正日は後継者に指名され、「金日成主義」を宣布したことは重要な意味を持つ。すなわち、主体思想をマルクス・レーニン主義と別個のイデオロギーに変質させることによって、金正日個人が共和国のイデオロギー解釈権を完全に独占したことになるからである(9)。主体思想が共和国の唯一思想である限り、思想的権威としての金正日の権力基盤は磐石となる。
 それゆえに金正日は「金日成主義は、その内容から見ても構成から見ても、マルクス・レーニン主義の枠内では解釈できない独創的な思想」(10)とし、「金日成主義が解明した新しい革命理論、とくに社会主義・共産主義建設にかんする理論を、マルクス・レーニン主義の理論にその根源を求めて解明しようとしてはな」らない(11)と決め付けたのである。だが一方で「金日成主義がマルクス・レーニン主義と区別される独創的な革命思想であるというのは、決してマルクス・レーニン主義の継承性の否定を意味するものではありません。現在、金日成主義の独創性を強調して、これをマルクス・レーニン主義と対置させる偏向も見られますが、金日成主義の独創性は、マルクス・レーニン主義の継承性を否定し、これに対置させることによってのみ論証されるものではありません」(12)とも述べる。それは東西の冷戦構造が現に存在していた頃の、いわば時代的制約に伴う遠慮とも想像されるが、「独創性を基本にし、これに継承性を結合して考察すること、これが金日成主義とマルクス・レーニン主義との関係を理解するうえで堅持すべき原則的な立場」(13)とされるように、金日成主義とマルクス・レーニン主義を事実上対置していることには相違ない。
 複雑なのは、主体思想と金日成主義との関連性である。金正日によれば、「それは内容において同一のものではありません。金日成主義は、チュチェ思想と、それにもとづいて展開された革命理論と指導方法を幅広く包括しています。それゆえに、私は金日成主義をチュチェの思想、理論、方法の体系と定義づけた」(14)とする。この定義に基づけば、「金日成主義≧主体思想」、すなわち主体思想プラスアルファ=金日成主義となるのだが、そのプラスアルファの部分に該当するものを、金正日は具体的に説明しようとしない。抽象的に、以下の如く述べるのみである。
 「人民大衆が歴史上はじめて世界の主人として登場し、自己の運命を自主的に、創造的に開いていく人類史の新時代、労働者階級の革命運動が大きく前進し、それが世界的規模で幅広く、深く展開される現代の革命実践は革命の新たな指導思想と指導理論を求め、広範な大衆を革命へと奮起させる指導問題を革命の運命にかかわる切実な問題として提起しました。チュチェ思想と、これによって解明された革命理論と指導方法を三大構成とする金日成主義は、革命運動発展のこうした新たな要請に解答を与えました」(15)。
 そこには、後に共和国が力説する「現代=自主性の時代」との認識が既に標榜されている。金日成によって「全世界の自主化」理念が定式化されたのは1982年のことであるが(16)、今日では「主席のこのような『全世界の自主化』政策を発展させ豊かにしたのは金正日将軍である」(17)とされるように、その実質的功績を金正日に帰している。だとするならば、主体思想の創始者はあくまで金日成であっても、自主性の時代における「革命理論」「指導方法」は金正日が発展させたものと言えなくもない。
 「金日成主義」の内実は、「金日成の主体思想」プラス「金正日のイデオロギー解釈」であり、実質的には“金日成=正日主義”とでも表現すべきものであった。しかし、当時の金正日は金日成の威光を背景とした権力基盤を構築していたのであり、“金日成=正日主義”についても、それはあくまで「金日成主義」として標榜されなければならなかった。そして金正日は、「金日成主義」の内容を詳細には語らないことによって、とき、環境などの条件の違いを考慮しながら、自由に現実を規定し、政策を正統化して実践に移すことができるようになったのである。それは、唯一的指導体制、すなわち金正日指導体制がイデオロギー面で確立したことであった(18)。


◇結び 「金日成主義」の終焉

 しかし、このようにして標榜された「金日成主義」は、その後金正日の著作や外国人の言葉を引用する形で取り上げられることはあっても、決して共和国政府、朝鮮労働党の公式の表現として用いられることはなかった。但し、1980年の朝鮮労働党第6回大会で採択された基本路線「全社会の主体思想化」は、「全社会の金日成主義化」を、表現を変えて示したものであって、それ自体が正式に認証されていないこと、あるいは放棄・軽視されるに至ったことを意味しないとの指摘もある(1)。
 第6回党大会は、金正日が公式の場に初めて登場したものである。大会初日の10月10日、大会執行部メンバーに選出された際に「金正日」の名が共和国の公式報道に初めて登場した。それ以前は「党中央」の隠語で表現されるのみであった金正日が、この大会で党中央委員会政治局常務委員会委員、党中央委員会書記、党中央軍事委員会委員に選出され、誰の目にも金日成の後継者であることが明らかとなったのである。
 1982年3月、「金日成同志誕生70周年記念全国主体思想討論会」に金正日は論文「主体思想について」を寄せているが、これは初めて公式に発表された著作である。この後、「金日成主義」に言及したものも含め、1970年代の記述とされる著作が続々と発表されたが、注目すべきは「主体思想について」以降の思想関係著作において、金正日は「金日成主義」について全く言及していないという点である。しかも、そこで彼は「われわれは金日成同志の思想、理論、方法をチュチェ思想というのである」(2)と述べるなど、かつて自らが示した「金日成主義≧主体思想」、「主体思想プラスアルファ=金日成主義」の定義を事実上放棄しているのである。この新たな見解に基づけば、「全社会の主体思想化」と「全社会の金日成主義化」は全く同一のものとなり、何ら矛盾しない。
 すなわち、金正日の後継体制構築のために必要とされ、創出された「金日成主義」という表現は、彼が後継者として公式に認知された1980年以降、もはや不要のものとなり、事実上「金日成主義→主体思想」へのすり替えが行われたのである。にも関わらず「金日成主義」に言及した過去の著作が1980年代になって発表された経緯が何を意味するのかは全く不明であるが、少なくとも「金正日は偉大なる首領の後継者として遜色がないことを認識させる役割が、北朝鮮の出版物に課せられた任務」であり、「後継者としての資質と特性を兼備した『金正日イメージ』を新たにつくり上げ、そのイメージを住民の中に定着させることが、党中央委員会宣伝煽動部と政務院傘下の出版総局の任務だった」(3)ならば、金正日が実際に権力を継承するまでの間、「金日成主義」も有為なものとして活用されたとの仮定は可能であろう。
 「金日成主義」を公式に表現しない理由を、「主体思想」をみずから「主義」と称することへの一種の辞譲ないし謙遜の念が働いていた(4)ためとするならば、1980年代後半からの、ソ連・東欧諸国での相次ぐ社会主義体制崩壊は、むしろ「金日成主義」を標榜する上でまたとない機会だったはずである。しかし、現にそれは行われなかった。1994年7月の金日成逝去とともに、金正日は事実上権力を継承したが、その時点においても彼は、金日成を「社会主義朝鮮の始祖」とし、朝鮮民族を「金日成民族」とまで表現したが(5)、主体思想を「金日成主義」と表現することはなかったのである。そして「三年喪」から明けた1997年、突如として「金日成主義」はあらゆる出版物から削除され、金正日の関連著作も回収された。
 今日、共和国では、1974年2月の「全社会の金日成主義化」宣布につき、表現を変えつつもこのように評価している。「(金正日)将軍は……全社会のチュチェ思想化を社会主義・共産主義建設の総体的任務、朝鮮労働党の最高綱領としてうちだしたのである。……綱領の提示によって社会主義・共産主義の建設過程が領袖の革命思想で一色化する過程だということが明らかにされ……こうして空想的社会主義学説の出現以来、長年多くの思想家、理論家が探求してきた理想社会についての科学的構想はついに完成し」た(6)。
 金正日にとって、「全社会の金日成主義化」とはかくも重要な出来事であった。かつ、それによって金正日はマルクスやレーニンさえも超越する思想理論家たりえると、共和国では認識しているのである。ならば、金正日の掲げる思想が「金日成主義」であっては都合が悪い。仮説の域を出るものではないが、かかる表現が封印された理由をこのようなところに求めることは、あながち間違いでもなかろう。それはどこまでも、社会主義制度下における権力世襲という特異な現象を正当化するための手段であって、正当化された後は封印しなければならなかった表現なのである。


序文
(1)金昌河『不滅のチュチェ思想』(平壌外国文出版社、1984年)3頁
(2)在日本朝鮮人総聯合会編『金正日略伝』(雄山閣、1995年)54頁
(3)『金正日略伝』(平壌外国文出版社、1998年)45頁
(4)「金日成主義の独創性を正しく認識するために」(『金正日文献集』、未来社、1987年)50頁
(5)『金正日略伝』(平壌外国文出版社、1998年)45頁
(6)小此木政夫編『北朝鮮ハンドブック』(講談社、1997年)259頁



(1)この年の2月8日、金日成は「われわれの世代に革命偉業を完遂できなければ、それを次の世代に引き継がせ」るべきと述べており(『金日成著作集』第17巻、平壌外国文出版社、1984年、68頁)、既に後継問題を視野に入れていたものと推認される。
(2)『金正日略伝(1995年版)』33頁
(3)『金正日略伝(1998年版)』22頁
(4)「反党反革命分子の思想的毒素を一掃し、党の唯一思想体系を確立するために」(『金正日選集』第1巻、平壌外国文出版社、1992年)225頁
(5)同上、226頁
(6)同上、227頁
(7)卓珍ほか『偉大な指導者金正日 上』(未来社、1985年)110頁
(8)同上、同頁参照
(9)同上、111頁
(10)『金日成著作集』第25巻(平壌外国文出版社、1986年)268頁参照
(11)「青年は代をついで革命をつづけなければならない」(『金日成著作集』第26巻、平壌外国文出版社、1986年)193頁
(12)黄長Y『黄長Y回顧録 金正日への宣戦布告』(文藝春秋、1999年)199頁
(13)小此木政夫・徐大粛監修『資料 北朝鮮研究・1 政治・思想』(慶應義塾大学出版会、1998年)274、281頁



(1)「思想活動において教条主義と形式主義を一掃し、主体を確立するために」(神谷不二編『朝鮮問題戦後資料』第二巻、日本国際問題研究所、1978年)124頁
(2)同上、130頁
(3)小此木政夫「北朝鮮共産主義の誕生−その原形をめぐって」(松本三郎・川本邦衛編著『ベトナムと北朝鮮−岐路に立つ二つの国』大修館書店、1995年)62頁参照
(4)「朝鮮民主主義人民共和国の社会主義建設と南朝鮮革命について」(『キム・イルソン著作選集』第4巻、平壌外国文出版社、1971年)238頁
(5)同上、同頁
(6)「国家活動のすべての分野で自主・自立・自衛の革命精神をいっそう徹底的に具現しよう」(『キム・イルソン著作選集』第4巻)572頁
(7)鄭慶謨・崔達坤編『朝鮮民主主義人民共和国主要法令集』(日本加除出版、1993年)18頁
(8)金鐘鳴編『朝鮮新民主主義革命史』(五月書房、1953年)248頁。
なお、スターリン憲法の影響をみとめつつも「独自的な憲法であった」とする見解もある。福島正夫『朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法』(日本評論社、1974年)12頁参照。
(9)鐸木昌之『北朝鮮−社会主義と伝統の共鳴』(東京大学出版会、1992年)98頁参照
(10)『金正日文献集』46頁
(11)同上、48頁
(12)同上、51頁
(13)同上、52頁
(14)同上、50頁
(15)同上、同頁
(16)金日成『全社会のチュチェ思想化をめざす人民政権の任務』(平壌外国文出版社、1982年)26〜34頁参照
(17)『領導の太陽金正日将軍』(平壌外国文出版社、1997年)316頁
(18)『北朝鮮−社会主義と伝統の共鳴』99頁

結び
(1)『北朝鮮ハンドブック』259頁参照
(2)「マルクス・レーニン主義とチュチェ思想の旗を高くかかげて進もう」(『チュチェ思想の継承発展について』平壌外国文出版社、1995年)111頁
(3)金英秀「千四百篇も書いた金正日−主要論文・著作から見た金正日路線の本質」(朝鮮日報「月刊朝鮮」編『金正日 その衝撃の実情』講談社、1994年)469頁
(4)『北朝鮮ハンドブック』260頁
(5)「偉大な主席を永遠に高く仰ぎ主席の偉業を最後まで完成しよう」(『月刊朝鮮資料』1999年1月号)6〜7頁参照
(6)『領導の太陽金正日将軍』157頁